井伊谷宮
旧官幣中社。
ご神紋は「十六八重菊」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
裏紋を李花としている。
参道と境内
境内まで
浜松市中心部から17kmほど離れた郊外、井伊谷川と神宮寺川が交わる地点の北側、神宮寺川のほとりに鎮座する。
社号標
鳥居
貫を貫通させない中山鳥居。素木造り。
境内
獅子狛犬
絵馬史料館
手水舎
中門と鳥居
中門は神明造四脚門、鳥居は中山鳥居。
社務所
祈祷控殿
拝殿
舞殿形式、正側面とも3間入母屋造妻入檜皮葺。
と『神道大辞典』にはあるが、銅板葺であるように見える。維持管理に耐えられず、変更があったのであろうか。
本殿
神明造、正面3間、側面2間。東を向く。千木は外削ぎ、鰹木は9本。背面に御墓がある。
権殿
摂社・末社
井伊社
本殿西側に鎮座。井伊道政と井伊高顕を祀る。摂社。
宗良親王墓
慈母観音像
池
神社概要
祭神:宗良親王
例祭:9月22日
祭神
後醍醐天皇第8の皇子、初め尊澄法親王と称せられ、還俗して宗良と改めさせらる。
後醍醐天皇の北条氏を図り給うや御兄護良親王と共に之に与り、元弘元年(1331年)北条氏に捕らえられ、翌2年讃岐国に流され給う。同3年北条氏滅ぶや京都に還り再び天台座主となり給う。延元元年(1336年)尊氏叛するや、遠江国井伊城に走り、同3年北畠顕家と共に入京せられたが、その秋再び吉野より井伊城に赴き東国を経営し、征東大将軍となり給う。興国4年また城陥り越後に赴き、爾来駿河、信濃、甲斐、美濃、越中、越後の間に往来、遂に多難の中に薨じ給う。
※ 護良親王を祀る神社
由緒
明治元年(1868年)親王御終焉の地と伝えられる龍潭寺域内に御宮御造営の儀仰せ出され、彦根藩主井伊直憲(井伊氏第35代当主)は曩祖行直(井伊氏第9代当主)、高顕父子共に親王を補佐し奉った縁故により造営に尽くす。
明治5年(1872年)鎮座祭を執行。
アクセス
バス:
自動車:
出典
井伊谷宮パンフレット
公式ホームページ:
平成28年(2016年)9月4日奉拝。
【官国幣社の例祭日】8月篇
官国幣社のうち、8月に例祭日を迎える神社をまとめている。
19社がここに社名を連ねる。
8月15日に鹿児島神宮、筥崎宮、函館八幡宮と、八幡宮系の神社が並ぶのが印象的。
神宮では皇大神宮・豊受大神宮共に8月4日に風日祈祭が行われている。風日祈祭は、農作物の成育期にあたり、天候が順調で風雨の災害もなく五穀の稔りが豊かであるよう、御幣を捧げて祈る祭り。
写真は 神宮ホームページ より
8月1日
氷川神社 (官大、埼玉県)
諏訪神社下社(官大、長野県)
箱根神社(国小、神奈川県)
8月3日
八代宮 (官中、熊本県)
8月4日
北野神社 (官中、京都府)
8月5日
海神神社 (国中、長崎県)
8月10日
安房神社 (官大、千葉県)→8月7日
8月13日
8月15日
鹿児島神宮(官大、鹿児島県)→旧暦
筥崎宮 (官大、福岡県)→9月15日
函館八幡宮(国中、北海道)
戸隠神社 (国小、長野県)
8月16日
8月20日
鎌倉宮 (官中、神奈川県)
8月23日
8月25日
太宰府神社(官中、福岡県)→9月25日
別官は「別格官幣社」を表している。
赤字は勅祭社。
※ リンクは記事を作成次第更新する予定。
建勲神社
旧別格官幣社。
織田信長 を主神とする。
ご神紋は「五瓜に唐花」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
参道と境内
境内まで
清少納言『枕草子』や吉田兼好『徒然草』にも登場する船岡山に鎮座。古来より景勝の地であった一方で、葬送地でもあり、保元の乱に敗れた源為義もここで刑死した。五山の送り火がよく見えるとのこと。
写真は北大路通りから。
船岡山中腹から。
社号標
昭和15年(1940年)6月とある。
鳥居
社号標を通り過ぎ3分ほど歩くと鳥居が出迎える。
形式は一般的な明神鳥居であるが素木造りは珍しい。台湾産の紅檜を使ったもので、昭和9年(1934年)に建てられ、平成12年(2000年)に改修、今に至るとのこと。
境内
由緒書
灯篭
旧本殿跡
碑が昭和45年(1970年)11月10日、宗教法人・修養団捧誠会によって奉納され、旧本殿跡に建立された。「大平和敬神」と記されている。
手水舎
社務所
祭器庫
拝殿
正面3間側面2間入母屋造妻入檜皮葺の舞殿形式。
中門
本殿
1間社流造檜皮葺。東を向く。
摂社・末社
船岡妙見社
本殿南側に鎮座。
義照稲荷社
本殿東側に鎮座。境内入口のすぐ近くにある。
碑など
織田信長は幸若舞の「敦盛」を好んだ、と伝わる。平敦盛は平清盛の甥。一ノ谷の戦いにて熊谷直実と一騎打ちを行い、17歳の若さで討死。平家物語の名場面の一つとなっている。
神社概要
主神:織田信長
配祀:織田信忠
例祭:7月1日(旧制では9月17日)
由緒
明治2年(1869年)建織田神の神号を宣下せらる。
明治3年(1870年)東京織田子爵邸ならびに羽前国天童舞鶴山に神社を創立、建勲神と改称せられ、勅使右少弁五辻安仲を遣わして奉告せしめる。
明治5年(1872年)織田子爵邸火災に遭ったので、更に清浄なる所を選んで祀る。
明治8年(1875年)4月24日 別格官幣社に列格。社地を山城国船岡山に卜して社殿を営む。
アクセス
地下鉄:
バス:
自動車:
- JR京都駅から 自動車20分
出典
建勲神社パンフレット
公式ホームページ:
平成30年(2018年)3月15日奉拝。
【官国幣社の例祭日】7月篇
西寒多神社
西寒多神 を主神とする。
この地方の古社。
ご神紋は「十六八重菊」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
参道と境内
境内まで
本宮山の麓、寒田川の畔に鎮座する古社。
社号標
昭和8年(1933年)10月とある。
鳥居
寒田川に架かる万年橋を渡ると鳥居が出迎える。
一般的な明神鳥居である。昭和2年4月建立。
境内
手水舎
社務所
神楽殿
相撲場
獅子狛犬
拝殿
正面3間、側面2間、廻縁勾欄附の舞殿風の建物で、長押下吹放、上に竹之節欄間を繞らせる。屋根は入母屋造平入で正面に千鳥破風及び軒唐破風を付す。
檜皮葺素木造と『神道大辞典』にはあるが、銅板葺であるように見える。維持管理に耐えられず、変更があったのであろうか。
精霊殿
中門
切妻造妻入方1間、背面に扉を付す。
本殿
3間社流造、棟に千木、鰹木あり、身舎四方縁勾欄を繞らし、正面中央を扉、左右の間を蔀戸とし向拝木階は3間幅一杯の広さにとっている。当社の南側に位置する本宮山を神体山とするためか、北を向く。
檜皮葺素木造と『神道大辞典』にはあるが、銅板葺であるように見える。維持管理に耐えられず、変更があったのであろうか。
摂社・末社
繰生社
東参道を挟むように鎮座。
大分社・天神社
本殿西側に鎮座。
厳島社
境内東側に鎮座。
合併社
境内西側に鎮座。隣には日露戦争の記念碑も。
遥拝所
観音堂
境内入り口近くの西側に鎮座。
神社概要
主神:西寒多神
配祀:月読尊、天忍穂耳命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、大直日神、神直日神、天児屋根命、伊弉諾大命、伊弉册大神、大歳神、倉稲魂神、天思兼神、経津主神、軻遇突智神
例祭:4月15日
由緒
延喜の制、大社に列し新年の国幣に預かる。
弘安8年(1285年)神田およそ246町を有した。
アクセス
バス:
- 大分バス ふじが丘南バス停から 徒歩15分
自動車:
- JR敷戸駅から 自動車9分
出典
西寒多神社パンフレット
公式ホームページ:
平成26年(2014年)8月23日奉拝。
【揮毫人】黒田 長成
神社の入り口にある社名を記した標柱を「社号標」という。
普段、気にすることのない社号標も意外な人が揮毫しているかもしれない。
今回紹介するのは、
黒田 長成
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に重用され、特に秀吉には側近として仕えた 黒田孝高(官兵衛)の末裔にあたる。黒田孝高は平成26年(2014年)の大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公であった。
黒田 長成
(くろだ ながしげ、慶応3年5月5日(1867年6月7日) - 昭和14年(1939年)8月14日)父は筑前福岡藩の最後の藩主 黒田長知 。妻は公爵 島津忠義 の娘、清子。長男は「日本鳥学の父」と称された黒田長礼。
福岡黒田家13代目の当主。
従一位勲一等旭日桐花大綬章侯爵。
慶應義塾中退、ケンブリッジ大学にて学士号を取得。かつての福岡藩藩校を再興した旧制中学修猷館館長(第3代)、貴族院議員や貴族院副議長(第4 - 8代)、枢密顧問官、議定官などを歴任した。特に貴族院副議長については約30年その職にあった。
豊臣秀吉を顕彰する豊国会や、菅原道真を顕彰する菅公会などの会長も務めた。
揮毫した社号標
確認できた限りでは福岡にある神社の社号標が多く、福岡との深い縁を感じさせる。
黒田長成の先祖にあたる、福岡藩主たちはこれらの神社の社殿再建や社領寄進を行なっている。
略歴
明治18年(1885年) ケンブリッジ大学キングス・カレッジ入学
明治20年(1887年) 同大学学士号(普通学位)取得、卒業
明治25年(1892年) 貴族院議員、福岡県立尋常中学修猷館 第3代 館長(~27年)
明治27年(1894年)10月16日 貴族院 第4~8代 副議長(~大正13年)
明治29年(1896年)3月14日 勲四等旭日小授賞
明治38年(1905年) 東邦協会会頭
大正4年(1915年)11月10日 勲一等瑞宝賞
大正11年(1922年)10月7日 勲一等旭日大綬賞
昭和14年(1939年)8月14日 勲一等旭日桐花大綬賞(没後叙勲)