坐摩神社
式内大社、旧官幣中社。
朝廷の崇敬極めて篤かった神々 生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比祇神 を祀る。
参道と境内
境内まで
大阪の市街地、阪神高速1号環状線と13号東大阪線の高架が交わる地の付近に鎮座する。
鳥居
鳥居を三つ連ねたような、三輪鳥居である。
社号標
昭和11年(1936年)5月建とある。
境内
獅子狛犬
手水舎
屋根に対して、水盤面積が妙に小さい。
社務所
境内南側、坐摩神社社務所と大阪府神社庁(宗教法人 神社本庁の地方機関)がこのビルに置かれる。
拝殿
鉄筋コンクリート製の社殿群は昭和35年(1960年)の再建。昭和20年(1945年)の大阪大空襲で焼失してしまった社殿を模したもの。
正面間、側面3間、入母屋造平入で、正面に1間の向唐破風造の向拝があり、その左右脇奥に招造で、神饌弁備所などを付属する。かつて素木造の銅板葺、床は土間。
壁代にご神紋の「鷺丸」が描かれている。
本殿
正面3間、側面2間の入母屋造平入の身舎に縋破風を付加し、正面3間の幅をそのまま1間の梁間とした向拝をつくって、これに接続し、また同じ幅員の祝詞舎を拝殿背面に連続している。銅板葺。かつて素木造の銅板葺、祝詞舎の床は土間。東を向く。
摂社・末社
大江社
境内北側に鎮座。
大国主社、繊維社、天満社、相殿社
境内北側に鎮座。大江社(写真左奥)の右隣から順に見出しの順番で並ぶ。
陶器社
灯篭が陶器製。
稲荷社
上方落語寄席発祥の地の碑
上方落語といえば、平成29年(2017年)に放送されたNHK連続テレビ小説「わろてんか」の世界でしょうか。
神社概要
例祭:4月22日
由緒
生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比祇神は大宮地の霊として神武天皇の朝に神勅に従い宮中に奉斎せられ、のち平安時代に神祇官西院において坐摩巫に斎かれなさり朝廷の崇敬極めて篤かった神々。
大同元年(806年)平城天皇、神封2戸を充てらる。
貞観元年(859年)清和天皇、神位従五位勲八等より従四位下に叙す。
延喜の制、大社に列し、新年・月次・新嘗の官幣に預かる。
天慶2年(939年)朱雀天皇、広田・長田・生田・枚岡など畿内の名社11箇所と共に祈雨幣の列に入る。
応和3年(963年)村上天皇、祈雨奉幣あり。
貞応2年(1223年)堀川天皇、神門および荒垣などの焼亡するや軒廊御卜を行わせる。
安永年中(1772-1781年)御桃園天皇、御撫物下賜の例を開かれる。
安政5年(1858年)勅によって攘夷御祈祷を修す。
明治元年(1868年)明治天皇、行幸の際畏くもご参拝のことあり。
昭和11年(1936年)5月21日 府社より官幣中社に列せらる。
アクセス
鉄道:
- 大阪メトロ 元町駅から 徒歩3分
自動車:
- JR大阪駅から 自動車10分
出典
坐摩神社パンフレット
公式ホームページ:
平成31年(2019年)3月30日奉拝。
【官国幣社の例祭日】5月篇
官国幣社のうち、5月に例祭日を迎える神社をまとめている。
22社がここに社名を連ねる。
5月14日には神宮にて和妙(絹のこと)と荒妙(麻のこと)の反物をお供えする、「神御衣祭」が行われる。同日、出雲大社は例祭日を迎える。
その翌日5月15日には賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の両社も「葵祭」として知られる例祭日を迎える。
写真は 神宮ホームページ より
写真は 京都市観光協会 より
5月1日
5月2日
沼名前神社(国小、広島県)
5月3日
水若酢神社(国中、島根県)
5月4日
砥鹿神社 (国小、愛知県)
5月5日
大国魂神社(官小、東京都)
多度神社 (国大、三重県)
南宮神社 (国大、岐阜県)
5月6日
金崎宮 (官中、福井県)
白山比咩神社(国中、石川県)
5月7日
古四王神社(国小、秋田県)
5月12日
常盤神社 (別官、茨城県)
5月14日
5月15日
5月17日
別官は「別格官幣社」を表している。
赤字は勅祭社。
※ リンクは記事を作成次第更新する予定。
鎌倉宮
神奈川県鎌倉市に鎮座する神社。
旧官幣中社。
ご神紋は「十六八重菊」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
参道と境内
境内まで
鎌倉市中心部から徒歩30分ほど、鶴岡八幡宮表参道を八幡宮向かって右側に入り18分ほどの奥地に鎮座する。
貫が柱から出ておらず、中山鳥居の形式ではあるが、額束はない。
配色も特徴的であるが、このような理由である、とのこと。
社号標
昭和4年(1929年)8月建とある。
陸軍大将一戸兵衛の書。
一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、安政2年6月20日(1855年8月2日)- 昭和6年(1931年)9月2日)は、日本陸軍軍人。
弘前藩士の長男として生まれる。明治7年(1874年)陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、明治9年(1876年)3月陸軍少尉試補・歩兵第2連隊(宇都宮)付を命じられる。西南戦争に出征、負傷する。日清戦争には第5師団第11連隊(広島)大隊長・陸軍少佐として出征。
明治30年(1897年)10月、陸軍大佐に任ぜられ近衛歩兵第4連隊第4代連隊長を拝命する。翌年茨木惟昭中将が師団長を務める第6師団(熊本)参謀長に就任。
明治34年(1901年)5月陸軍少将に昇進、歩兵第6旅団(金沢)旅団長を命じられる。明治37年(1904年)6月から日露戦争に出征、旅順攻囲戦にて活躍。翌年3月から第3軍参謀長。明治39年(1906年)1月帰還する。
第1師団(東京)司令部付・歩兵第1旅団(東京)旅団長を経て明治40年(1907年)11月陸軍中将に昇進、第17師団(岡山)初代師団長を親補される。明治44年(1911年)9月第4師団(大阪)第10代師団長、大正元年(1912年)12月第1師団(東京)第10代師団長。
大正4年(1915年)2月軍事参議官に就任。同年8月陸軍大将に昇進、12月第8代教育総監に就任。大正8年(1919年)8月再び軍事参議官に就任。大正9年(1920年)後備役編入となる。
同年5月から大正11年(1922年)11月まで学習院長を務める。大正13年(1924年)8月明治神宮宮司に就任。大正15年(1926年)2月から帝国在郷軍人会第3代会長も兼ねる。
陸軍大将正二位勲一等功二級旭日桐花大綬章。
境内
手水舎
社務所
拝殿
方3間、入母屋造妻入の舞殿形式。
檜皮葺素木造と『神道大辞典』にはあるが、銅板葺であるように見える。維持管理に耐えられず、変更があったのであろうか。
本殿
正面3間、側面1間の切妻造平入、銅版葺。千木、鰹木を具え、廻縁勾欄附の素木造。南西を向く。
摂社・末社
村上社
拝殿南側に鎮座。村上義光を祀る。
義光は鎌倉時代末期の武将で、護良親王の御名代として殉じた。『太平記』で活躍ぶりが描かれる。
南方社
本殿北側に鎮座。写真では瑞垣越しに千木、鰹木が見える。持明院藤原保藤女南の御方を祀る。南の御方は護良親王の鎌倉幽閉中常にお側に侍り、かつ薨去の後京都に帰り委曲奏上した官女。
土牢
護良親王が9ヶ月に渡り、幽閉されていたと伝わる。
鎌倉宮碑
明治天皇が鎌倉宮ご創建にあたり、太政大臣三条実美公への勅語を刻したもの。
宝物殿
境内の休憩所
神社概要
鎮座地:神奈川県鎌倉市二階堂に鎮座する神社。
祭神:護良親王 を祀る。
例祭:8月20日
由緒
明治元年(1868年)7月京都聖護院村に神座を設けて親王を奉斎。
明治2年(1869年)2月親王御終焉の跡といわれる現在の地に社殿の造営を仰せ出され、同6月鎌倉宮の宮号を賜い、同7月社殿竣成するや21日、御鎮座の儀が行われた。
明治6年(1873年)4月明治天皇御親拝遊ばされ、6月9日官幣中社に列格。
昭和23年(1948年)神社本庁包括下に入らず現在に至る。
アクセス
バス:
- 京急バス 大塔宮バス停から 徒歩すぐ
自動車:
- JR鎌倉駅から 自動車7分
出典
鎌倉宮パンフレット
公式ホームページ:
来月から令和元年ですが… ☆総数が100を超えました
約200年ぶりのご譲位に伴う改元、憲政史上初の事前公表という歴史的瞬間。
私も画面に張り付きっぱなしでした。
平成生まれの私が元号を意識したのは小学5年頃、社会科の教科書巻末の年表を眺めながら、「平成」の前には「昭和」がかつてあってその前は「大正」、「明治」……。「平安時代」「鎌倉時代」なんていう為政者の拠点や体制で決まる呼称は歴史を捉えやすくて腑に落ちるけど、明治以降は「天皇」と呼ばれる一人の人間の死によって時代が区切られてしまうのか……どれだけすごい人なんだろう、と考えたのを思い出します。
当時は小学生ですので、もちろんこんな小難しい言葉は使えておらず、今の語彙力で表現したものですが。
「大化の改新」「承久の乱」「安政の大獄」など習っていても「明治」「大正」「昭和」「平成」と同列の元号という認識は薄かったですし、慶応以前の元号はそもそも崩御と一対一の関係でもなく。
そして、ふと、「今の平成は永遠じゃないのか」と。平成の次は何になるんだろう、という好奇心が頭をもたげると同時に、そのことを考える不謹慎さに気づける年齢でもあったのでそっと胸にしまったことを覚えています。
それから十数年。まさか、テレビやSNS(そんなものは当時全然身近じゃなかった)で新元号を予想するようなお祭り騒ぎの改元を迎えることが来るなんて、この日までは想像だにしませんでした。
この日も事前に重大発表があると聞いて、平成に生きる人間としてはしっかり見届けたいと画面前に張り付いていました。お言葉を耳にして、戸惑いました。
端的に「天皇としての務めを続けるのが難しい」という宣言に解釈できるけれど、皇室典範によるとご崩御なくして皇位継承は不可能だったよね……今の皇太子殿下に摂政をお願いするということだろうか。大正天皇の御治世でも後の昭和天皇が摂政となっていた事例も直近にあった訳だし。でも、このようにお話になられたからには、摂政を解決策とはお考えではないのか……と。
(前略) 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。 (後略)
今月30日、いよいよ退位の礼をもって今上天皇はご譲位あそばされ、来月1日、令和新時代が幕を開けます。
初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」(総理大臣談話)との願いが込められているそうで、様々な分断が世界的に顕著になりつつある今のご時世だからこそ輝く素晴らしい元号だと思います。
さてさて。
前置きが長くなりましたが。
こちらのブログ、特にブログ開設時に説明もなく毎月1日に各地の神社の祭日について、15日に私が訪れた神社の紹介を淡々と行ってまいりました。境内や由緒から様々な歴史が見え隠れする神社に魅力を感じ、かといって神社は無数にあるので、明治期から第二次世界大戦までに国の制度として存在した「官国幣社」に関連のある神社を巡るという制約条件の元で不定期な一人旅を行うことに5年ほど前思い立ったのでした。紹介する神社はその旅行で出会った神社です。
二十二社や一宮、勅祭社、式内社などの括りもありますが、数としては官国幣社が少なすぎず多すぎず満遍なく日本各地を訪れることができてちょうど良いと思ったのです。
200社超えるけどねぇ……
これまで8社を紹介してきました。
東京都の 日枝神社
個人的に記録を残したい思いから始めて、皆様にご覧いただけるのは副次的なものとして捉えておりましたが、ご愛顧いただけているのか、
☆総数が本日100を超えました!
これからも基本的には淡々と更新を続けますが、小難しい文章は是非読み流していただいて神社の様々な表情を拙い写真ではありますが楽しんでいただければ、と考えています。
令和元年となっても、よろしくお願いします。
【官国幣社の例祭日】4月篇
官国幣社のうち、4月に例祭日を迎える神社をまとめている。
43社がここに社名を連ねる。
4月3日には、宮中で神武天皇祭が行われる。神宮、諸社では遥拝が行われる。
写真は 橿原市/神武天皇陵 より
4月1日
4月2日
4月3日
梅宮神社 (官中、京都府)
4月4日
広瀬神社 (官大、奈良県)
4月5日
4月7日
4月9日
稲荷神社 (官大、京都府)
4月14日
香取神宮 (官大、千葉県)
4月15日
建部神社 (官大、滋賀県)
熊野坐神社(官大、和歌山県)
諏訪神社上社(官大、長野県)
金鑽神社 (官中、埼玉県)
生田神社 (官中、兵庫県)
4月17日
二荒山神社(国中、栃木県日光)
4月18日
4月21日
4月22日
多賀神社 (官大、滋賀県)
真清田神社(国中、愛知県)
4月23日
度津神社 (国小、新潟県)
4月24日
籠神社 (国中、京都府)
4月27日
尾山神社 (別官、石川県)
4月29日
小御門神社(別官、千葉県)
4月30日
靖国神社 (別官、東京都)
別官は「別格官幣社」を表している。
赤字は勅祭社。
※ リンクは記事を作成次第更新する予定。
田島神社
天照大神と素戔嗚尊の誓により生まれ出た 多紀理比売命・市杵島比売命・多岐都比売命を主神とする。
かつて大陸への航路を護った社。
ご神紋は「変わり向こう桜」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
参道と境内
境内まで
佐賀県唐津市にある呼子港の沖約500mに位置する加部島。古くは「壁島」と呼ばれ玄界灘に臨む港にとって天然の防波堤となっている。呼子大橋によって九州島と繋がる。
田島神社は加部島東部の漁港を見守るように鎮座している。穏やかな雰囲気に包まれる。
由緒書
社号標
昭和16年(1941年)2月11日とある。
2月11日は紀元節(現:建国記念の日)であり、記念で建立されたものと想像される。
茂みに覆われようとしていたが、昭和16年以前のものらしき社号標も存在した。
階段を下ると鳥居が出迎える。
昭和16年(1941年)10月に竣工され、東松浦郡の支那事変(日中戦争)従軍者によって奉献された、とのこと。
鳥居の傍らにある灯籠は第32代内閣総理大臣・廣田弘毅の書とある。皇紀2600年(昭和15年・1940年)を記念したものであるようだ。
外務大臣(第49・50・51・55)や内閣総理大臣(第32代)を歴任した廣田。昭和15年当時彼は、米内光政内閣の内閣参議(昭和12年から18年にかけて存在した内閣の諮問機関)を務めていた。この年の10月、大政翼賛会が発足しており、廣田は貴族院無所属倶楽部を組織した。
境内
手水舎
社務所
頼光鳥居
肥前鳥居として佐賀県最古。天元3年(980年)、源頼光が肥前守として下向の際に寄進したもの。田島宮の文字は三跡に数えられる藤原佐理の筆。
楼門前の鳥居
海から参拝することもあったのかもしれない。
獅子狛犬
楼門
拝殿
方3間、入母屋造妻入、廻縁勾欄附で、総蔀戸建の身舎の正面に別の廂屋根を降して向拝とする舞殿風の建築。左に祓殿、右に神饌所を連絡する。
檜皮葺素木造と『神道大辞典』にはあるが、銅板葺であるように見える。維持管理に耐えられず、変更があったのであろうか。
拝殿前にも獅子狛犬が控える。
中門
一間一戸、向唐破風造、左右に菱組格子窓の透塀を連ねる。
本殿
3間社流造、身舎に廻縁勾欄あり、正面はすべて蔀戸、側面は前の間扉、後の間蔀戸、背面は嵌板張。木階を正面3間幅一杯に取る。
北西に向かって建っており、異国降伏の意を表したものという。
摂社・末社
佐與姫社
拝殿向かって左側に鎮座。大伴狭手彦の妻佐與姫を祀る。大伴狭手彦は勅命により、宣化天皇2年(537年)10月任那を援護するために松浦国篠原の里に滞在した。末社。
御崎社
境内北側に鎮座。級長津彦神、級長津姫神、猿田彦神を祀る。豊臣秀吉の朝鮮出兵にあたり、「小鷹丸」の船首に瑞真榊を立て、大陸に7度の往復をして無事に帰国できたことから、神恩感謝のため、海上安全の御守神として祀ることになったという。
元寇の碇石
蒙古軍船が碇に使用した石。玄海灘の海中より引き揚げられたもの。
太閤祈念石
本殿背後の森の中にある。豊臣秀吉が朝鮮出兵の成功を祈願し、槍で突くと真っ二つに割れたと伝わる。
神社概要
主神:多紀理比売命・市杵島比売命・多岐都比売命
配祀:大山祇神・稚武王
例祭:9月16日
由緒
大同元年(806年)神封16戸を充てられ、正四位上に累進する。
延喜の制、名神大社に列して新年の国幣に預かる。
中世以降、武門の尊崇を受ける。
近世、唐津城主土井氏は祈願所となす。
アクセス
自動車:
- JR唐津駅から 自動車30分
バス:
- 昭和バス 加部島中部バス停から 徒歩3分
出典
田島神社パンフレット