日枝神社
東京都千代田区に鎮座する神社。
准勅祭社、旧官幣大社。
山の地主神 大山咋神 を主神とする。
皇居の鬼門を護る社。
ご神紋は「左三つ巴」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
参道と境内
境内まで
総理大臣官邸・国会議事堂などの重要施設に隣接して鎮座する。皇居の南東(裏鬼門)に当たる地である。
社号標
元帥海軍大将正二位大勲位功一級伯爵 東郷平八郎による書とある。
東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12年12月(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は薩摩藩士、海軍軍人。
薩英戦争で初陣を迎え、戊辰戦争では阿波沖海戦、函館戦争で戦った。明治4年(1871年)から11年(1878年)まで海軍士官としてイギリスに官費留学、国際法を学ぶ。後年の高陞号撃沈事件においてその真価が発揮された。佐世保鎮守府司令長官(第9代)、舞鶴鎮守府司令長官(初代)を歴任。日露戦争にあたっては第一艦隊兼連合艦隊司令長官(第3・4代)に任命され、日本海海戦において勝利を飾る。以降、海軍軍令部部長(第8代)、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)に日露戦争の功によって大勲位菊花大授賞と功一級金鵄勲章を授与される。翌年明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)には元帥府に列せられた。喉頭癌、膀胱結石、神経痛、気管支炎の悪化により昭和9年(1934年)死去。国葬が執り行われた。
Time誌において表紙を飾った初の日本人でもある。
鳥居から楼門まで(表参道)
鳥居
境内入り口を示す鳥居。山王鳥居である。明神鳥居の上に合掌、あるいは破風のようなものをつくってあるのが特徴。
急勾配の階段は一直線に参拝者を楼門へと導く。
宝物殿と手水舎
階段を登りきった左手に宝物殿と手水舎がある。
楼門
楼門は三門一戸、左右に廻廊がある。屋根は銅板の瓦棒葺。
拝殿
正面7間、側面3間で廻廊・勾欄は、内部は前面1間通の部分と、その後方奥行2間を中央と左右脇の三部、計四区に分かれる。入母屋造平入で、正面に3間の向拝を縋破風にて葺きおろし、向千鳥破風及び軒唐破風を造る。
東京大空襲にて焼失したため昭和33年(1958年)再建。
本殿・幣殿
本殿 は正面3間、側面3間、廻縁、勾欄を有し、内陣・中陣・外陣に分かれ、入母屋造平入。銅瓦棒葺。東を向く。
幣殿 は正面3間、側面3間、廻縁、勾欄をそなえ、右側後方神饌所に連絡する渡廊を連ね、屋根は両下造。
末社
八坂神社・猿田彦神社、山王稲荷神社
境内北側に鎮座。
山王稲荷神社は東京大空襲の際に焼失は免れた万治2年から伝わる社殿。
鳥居から楼門まで(南参道)
鳥居
境内入り口を示す鳥居。
山王鳥居である。明神鳥居の上に合掌、あるいは破風のようなものをつくってあるのが特徴。エスカレーターを使って境内に到達できる。
神社概要
鎮座地:東京都千代田区永田町
主神:大山咋神
配祀:国常立神・足仲彦尊・伊奘冉神
例祭:6月15日
祭神
由緒
文明年間(1469 - 1486年)太田道灌、江戸城築城にあたり川越山王社を勧請する。
天正18年(1590年)徳川家康入城後、紅葉山に遷し、更に社地を半蔵門外に定めて遷移し、別当・神主を定める。
明暦3年(1657年)大火に御宇烏有に帰するや、直ちに赤坂溜池の現社地に新造する。
万治2年(1659年)将軍家綱のときに遷座の式を仰ぐ。
明治元年(1868年)勅祭社に準ぜられる。
明治3年(1870年)2月9日 神祇官準勅祭社に列格。
昭和20年(1945年)東京大空襲により社殿を焼失。
昭和30年(1955年)「昭和御造営」により社殿再建。
アクセス
自動車:
- JR新橋駅 から 自動車6分ほど
徒歩:
出典
日枝神社パンフレット
公式ホームページ:
平成30年(2018年)3月28日奉拝。
【官国幣社の例祭日】11月篇
官国幣社のうち、11月に例祭日を迎える神社をまとめている。
11月23日に新嘗祭が執り行われる。五穀の収穫を感謝する宮中祭祀であり、全国の神社でも同日に新嘗祭が行われる。このような大きな祭を控えるためか、11月に例祭を迎える神社は11社と、先月の53社に比べかなり少ない。
写真は 神宮ホームページ より
11月1日
都々古別神社(国中、福島県・八規)→12月第2土曜日
11月3日
明治神宮 (官大、東京都)
11月4日
11月5日
都農神社 (国小、宮崎県)→12月5日
11月9日
11月10日
11月15日
宗像神社 (官大、福岡県)→10月2日
竃門神社 (官小、福岡県)
11月17日
11月28日
吉備津神社(国小、鹿児島県)→11月23日前後
別官は「別格官幣社」を表している。
赤字は勅祭社。
※ リンクは記事を作成次第更新する予定。
海神神社の摂末社
その摂末社を紹介する。
ご神紋は「十六菊」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
摂社・末社
行先殿神社
摂社。楼門向かって右手に鎮座。濱殿の御子と乳母も共に祀られている模様。
一宮神社・若宮神社・新霊社・今宮神社
奥から、海神神社本殿、行先殿神社に続き題の通りの順で末社が鎮座する。
一宮神社には白鬚神・御先駈神・飛﨑神が合わせて祀られる。
若宮神社には瓊宮神・五三神が合わせて祀られる。
新霊社には金倉神、貴船神が合わせて祀られる。
今宮神社には寶満神、濱殿神、左廳神、美女神、天道神が合わせて祀られる。
アクセス
バス:
- 厳原港から比田勝方面で1時間、「三根」で乗換え、青海行き(15分)神社前
自動車:
- 厳原港から1時間10分
出典
海神神社パンフレット
平成29年(2017年)9月29日奉拝。
海神神社
神功皇后ゆかりの社。
ご神紋は「十六菊」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
参道と境内
参道
対馬市中心部からは1時間10分ほど。島内に鉄道はなく、公共交通機関でのアクセスはバスのみに限られる。
一の鳥居から三の鳥居まで
一の鳥居
境内入り口を示す一の鳥居。名神鳥居。
社号標
大角 岑生(おおすみ みねお、明治9年(1876年)5月1日 - 昭和16年(1941年)2月5日)は愛知県出身の海軍軍人。
海軍兵学校24期(成績は3位)。フランス大使館附武官、軍務局長、第3戦隊司令官、海軍次官、第2艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官(第27代)などを歴任。昭和6年(1931年)には海軍大臣(第34代・犬養毅内閣)となる。五・一五事件にて引責辞任するも、昭和8年(1933年)に海軍大臣(第36・37代)の座に復帰。昭和11年(1936年)の二・二六事件後、軍事参議官。中国視察のために乗り込んだ飛行機の墜落事故により死亡。
海軍大将正二位勲一等旭日桐花大綬章男爵。
社務所と宝物館
鳥居左手には社務所と宝物館。
社務所は基本的に無人の様子。御朱印をいただきたく、事前に何度も電話をするも繋がらず、いただけないものと覚悟を決めていた。ところが、たまたま清掃を終えお帰りになろうとする神職の方に境内で遭遇、帰り際に引き止める身勝手さを恥じながらも声をかけると快く御朱印をいただけた。
いただいたパンフレットには電話番号が記載されてあり、御朱印をいただきたい方は事前に連絡をすることをお勧めする。
0920-83-0137(神社)
0920-58-0155(宮司宅)
宝物館は予約があれば200円で拝観できる。
義勇奉公の碑。
参道脇に佇む祭魂社。
手水舎
二の鳥居
一の鳥居と同じ明神鳥居。
獅子狛犬
二の鳥居両脇に佇む。
三の鳥居までは長い階段が続く。
三の鳥居
一の鳥居と同じ明神鳥居。
拝殿
方3間吹放の舞殿風建物で入母屋造妻入の桟瓦葺。
幣殿
桁行3間渡廊式。
本殿
3間社流造檜皮葺。奥行3間の身舎に縁を巡らし、正側三方に勾欄を附す。大陸を意識させられる地理であるためか西を向く。
と『神道大辞典』にはあるが、銅板葺であるように見える。維持管理に耐えられず、変更があったのであろうか。
神饌所
摂社・末社
神社概要
主神:豊玉姫命
配祀:彦火火出見命、鵜茅草葺不合命、宗像神、道主貴神
例祭:8月5日
由緒
神功皇后、新羅征討終わって還御の途、上県郡佐賀村に至り、旗八旒を納めて新羅を鎮める験とせられ、その地に神功皇后及び宗形神を祀る。今の佐賀村八幡である。その後、旗八旒を木坂山に遷して神功皇后を祀ってより佐賀村宗形社を木坂八幡宮(本社)の末社としたとされる。創祀の年月は定かではない。
承和4年(837年)従五位上に叙せられる。
アクセス
バス:
- 厳原港から比田勝方面で1時間、「三根」で乗換え、青海行き(15分)神社前
自動車:
- 厳原港から1時間10分
出典
海神神社パンフレット
平成29年(2017年)9月29日奉拝。
【官国幣社の例祭日】10月篇
官国幣社のうち、10月に例祭日を迎える神社をまとめている。
55社がここに社名を連ねる。
日本において秋は収穫の時期であり、宮中祭祀では10月17日に神嘗祭を執り行いその年の初穂を天照大御神に奉納する。伊勢の神宮では同日に御装束・御器具を一新する。
農業と祭祀は密接に結びついており、このため各地の神社もこの時期に祭日を設けたのではないだろうか。
写真は 神宮ホームページ より
ここには朝鮮・台湾・南洋群島といった旧外地にかつて存在した神社も多く見受けられ、例祭日も集中している。これについては各項目で考察する。
10月1日
豊栄神社 (別官、山口県)
10月2日
10月7日
10月8日
10月9日
大神山神社(国小、鳥取県)
10月10日
梨木神社 (別官、京都府)
若狭彦神社上社(国中、福井県)
福井神社(別官、福井県)
10月11日
海神社 (官中、兵庫県)
安仁神社 (国中、岡山県)→10月第2土曜日
大縣神社 (国中、愛知県)
10月12日
速谷神社 (国中、広島県)
10月13日
北畠神社 (別官、三重県)
高良神社 (国大、福岡県)
10月14日
全州神社 (国小、全羅北道)
10月15日
伊和神社 (国中、兵庫県)
伊曽乃神社(国中、愛媛県)
枚聞神社 (国小、鹿児島県)
江原神社 (国小、江原道)
光州神社 (国小、全羅南道)
10月16日
龍頭山神社(国小、慶尚南道)
10月17日
朝鮮神宮 (官大、京畿道)
南洋神社 (官大、パラオ諸島)
咸興神社 (国小、咸鏡南道)
神嘗祭の日であり、以上の三社はいずれも天照大神を祀ることからこの日となったのではないか。
10月18日
京城神社 (国小、京畿道)
10月19日
10月20日
出石神社 (国中、兵庫県)
10月21日
出雲神社 (国中、京都府)
10月23日
靖国神社 (別官、東京都)→10月18日
10月25日
唐沢山神社(別官、栃木県)
10月26日
宮崎神宮 (官大、宮崎県)
10月28日
台湾神宮 (官大、台北州)
台南神社 (官中、台南州)
照国神社 (別官、鹿児島県)
新竹神社 (国小、新竹州)
台中神社 (国小、台中州)
台湾に鎮座していた5社はいずれも北白川宮能久親王を祀る。能久親王は近衛師団長として台湾出征時に陣没した。国葬時から神社奉斎の世論が起こったため所縁の台湾の地に台湾神宮や台南神社が創建された。能久親王の命日が10月28日であったため、これらの神社の例祭日も10月28日になったものと想像される。
10月29日
香椎宮 (官大、福岡県)
別官は「別格官幣社」を表している。
赤字は勅祭社。
※ リンクは記事を作成次第更新する予定。
勅祭社
勅祭社(ちょくさいしゃ)とは、勅使が参向して祭祀が執行される神社のことで、正式には勅使参向の神社という。
勅祭に預かる神社は古くからあり、二十二社などがその代表であるが、近代になってからの正式な勅祭社は、明治元年(1868)10月に勅祭の神社と決定された氷川神社である。(中略)
現在に至る勅祭社が正式に治定されたのは、明治16年に賀茂祭および石清水祭が勅祭と定められた賀茂御祖神社、賀茂別雷神社および石清水(男山)八幡宮が最初である。その後、春日神社、氷川神社、熱田神宮、橿原神宮、出雲大社、明治神宮、朝鮮神宮、靖国神社、宇佐神宮、香椎宮、鹿島神宮、香取神宮、平安神宮、近江神宮が勅祭社となっている。
現在の勅祭社は消滅した朝鮮神宮を除く前記の16社であるが、このうち宇佐神宮と香椎宮は10年ごと、鹿島神宮、香取神宮は6年ごとに勅使が差遣され、また靖国神社には春秋2度の大祭に勅使が差遣されている。
『延喜式』に見られるように古来より諸大社は全国にあったが、平安後期になると律令制の衰退とともに遠隔の諸大社への奉幣は避けられ、逆にそのために京に近い神社が有力氏族や民衆の崇敬を集めて固定化され、新たな社格ともいえる二十二社が制度として成立した。しかしこれも室町後期に朝廷の奉幣が中断、江戸時代に何度か再興が試みられたが果たされなかった。
その後、国学の隆盛と復古神道の機運の高まりを受けて明治維新が成ると、1868年(明治元年)、明治天皇は氷川神社の祭事を勅祭として行った。これが近代の勅祭社の始まりである。明治3年には東京とその附近の12社を准勅祭社と定めた。これらは一時的なものであったが、1883年(明治16年)、賀茂神社(賀茂御祖神社、賀茂別雷神社)の賀茂祭(葵祭)、石清水八幡宮の石清水祭が勅祭と定められて今日につながる勅祭社となり、以降はその数を増やしていった。
官国幣社を紹介する本ブログであるが、勅祭社の全てが官国幣社となっていることから記事とした。靖国神社を除いた全てが旧官幣大社である。
勅祭社の一覧
( )内の年号は勅祭社に治定せられた日付である。
(式内名神、山城国一宮、二十二社、官大、四方拝、明治16・09・02)
(式内名神、山城国一宮、二十二社、官大、京都府、明治16・09・02)
石清水八幡宮(二十二社、官大、京都府、四方拝、明治16・09・02)
春日神社(式内名神、二十二社、官大、奈良県、明治18・04・06)
氷川神社(式内名神、武蔵国一宮、官大、埼玉県、四方拝、明治25・06・23)
香取神宮(式内名神、下総国一宮、官大、千葉県、四方拝、昭和16・12・23)
鹿島神宮(式内名神、常陸国一宮、官大、茨城県、四方拝、昭和16・12・23)
熱田神宮(式内名神、官大、愛知県、四方拝、大正6・02・01)
出雲大社(式内名神、出雲国一宮、官大、島根県、大正6・02・01)
宇佐神宮(式内名神、豊前国一宮、官大、大分県、大正14・02・05)
(官大、福岡県、大正14・02・05)
(官大、京都府、昭和20・12・15)
明治神宮(官大、東京都、大正9・10・15)
朝鮮神宮(官大、京畿道、大正14・09・14)
靖国神社(別官、東京都、明治2・06・23)
※ リンクは記事を作成次第更新する予定。
賀茂別雷神社
別雷命 を祀る。
勅祭社であり、毎年例祭に勅使を迎える皇室ゆかりの社。
ご神紋は「花付き二葉葵」(ご神紋の画像は家紋市場より)。
参道と境内
境内まで
鴨川のほとりに佇む古社。
一の鳥居前にはロータリーが整備されており、京都市バスの停留所もある。
鳥居から楼門まで
一の鳥居
境内入り口を示す一の鳥居は朱塗り。名神鳥居。
二の鳥居までは白砂の敷かれた参道が一直線に参拝者を誘う。
外幣殿
参道右手に見えるのは外幣殿。
桁行5間、梁行3間、入母屋造檜皮葺で東側梁行1間通りを土間、その他を板敷とし、板敷部分の三方に縁をめぐらせる。法皇、上皇の行幸、摂政関白の賀茂詣の節の着到殿であった。また競馬会の際の諸役著座する馬場殿でもあった。
二の鳥居
二の鳥居。同じく名神鳥居。
二の鳥居をくぐり抜けると、建物群が迎える。
楽屋
二の鳥居を抜けてすぐ近くの建物。寛永5年(1628年)建造。重要文化財。檜皮葺。
土屋
神主以下の着到殿として用いられた。寛永5年(1628年)建造。重要文化財。
桁行5間、梁行2間、入母屋造、土間砂敷である。檜皮葺。
橋殿(舞殿)
勅使の拝殿。
桁行6間、梁行1間、正面桁行1間を土間とし、板敷左右側に縁勾欄を附す。入母屋造妻入。檜皮葺。
細殿
桁行5間、梁行2間、入母屋造、板敷、廻廊勾欄を有する。檜皮葺。
細殿の前に設けられた立砂は白砂をきれいな円錐形に盛り上げたもので、賀茂別雷神が降臨したといわれる「神山」(こうやま)をかたどり、神を招く憑代の役割を果たしている。
手水舎
楼門
楼門は三門三戸(格子戸)、東西廻廊は土間単廊で、桁行それぞれ9間。檜皮葺。
中門
一間一戸四脚門、左右に東局及び西局を接結し、いずれも正面8間、側面2間の板敷、廻廊の位置に相当する。
幣殿
忌子の伺候所であった忌子殿につながる。
本殿
流造の代表的なものとして常に挙げられ、古格を伝える形式を示す。
造営の初記録は天武天皇6年(677年)とあり、長元9年(1036年)以降、21年式年造営の儀を勅定されたという。一時式年の制が衰え、延滞することもあったが、文久3年(1863年)の造営に再び21年毎造営の制を仰出された。
正面3間、側面2間、内陣、外陣の区別はない。廻廊勾欄附きで千木、鰹木をそなえない。檜皮葺。右側に並び建つ権殿は同尺かつ同形式。
賀茂御祖神社神殿に酷似するが、勾欄、木階が素木造(賀茂御祖神社は朱漆塗)、正面扉両脇の間の嵌板に狩野風の獅子狛犬の絵を描く(賀茂御祖神社は絵なし)。南を向く。
国宝に指定されている。
勅使殿・社務所
摂社・末社
須波神社
摂社。楼門向かって右手に鎮座。
新宮神社
摂社。本殿右手に鎮座。
奈良神社
摂社。庁屋の後ろに控える形で鎮座。
棚尾社
末社。 中門前右手に鎮座。
川尾社
末社。楼門前右手に鎮座。
橋本社
末社。楼門前左手に鎮座。
山尾神社
末社。新宮神社に隣接して鎮座。
岩本神社
末社。
山森神社
末社。梶田神社と並んで鎮座。
梶田神社
末社。山森神社と並んで鎮座。
片岡社
楼門向かって右手に鎮座。
沢田社
神宮遥拝所
ならの小川についての碑
願い石(陰陽石)
池の底から出土したという。
神社概要
社格:式内名神、二十二社(上七社)、山城国一宮、旧官幣大社、勅祭社
祭神:別雷命
例祭:5月15日
祭神
別雷命
賀茂建角身命の御子である建玉依姫が賀茂川の辺に遊びなさったとき、川上より丹塗矢が流れて来たので取って床辺に置き、孕んで男子が産まれた。建角身命はその父を知ろうとして、その御子に杯を持たせ、汝の父と思う人にこの酒をを飲ませよ、と言われたところ、御子は屋甍を破って天に昇ったため、御子を別雷命と称した。
由緒
神武天皇の御宇、賀茂山の麓の御阿礼所に降臨なさり、天武天皇6年(677年)山城国をして現今の地に社殿を造営せしめられたと伝わる。
天平勝宝2年(750年)孝謙天皇、御戸代田1町を神領として充て奉る。
天応元年(781年)光仁天皇、賀茂二社の禰宜祝に把笏の儀を許される。
延暦3年(784年)桓武天皇、長岡京に遷都せらるるや直ちに奉幣、賀茂下上の二神に従二位を授けらる。
延暦13年(794年)桓武天皇、平安奠都の後正二位勲一等を授けらる。行幸。
弘仁元年(810年)嵯峨天皇、第8皇女有智子内親王を斎院とす。
嘉祥3年(850年)文徳天皇、御即位により奉幣。
寛平元年(889年)宇多天皇、初めて臨時祭を行われる。
延喜の制、名神大社、月次、相嘗、新嘗に預からしめられる。名神祭、祈雨、止雨の奉幣にも預からしめられる。
二十二社の制、整うや上七社の内に列し、祈年穀奉幣に預からしめられた。
長徳3年(997年)一条天皇、神主職を創置せられた。
寛治4年(1090年)堀河天皇、上下両社に不輸田各々600余町を献ぜられた。
後鳥羽上皇、常に祈願を籠めさせられ度々ご参籠あり。
亀山上皇、50日間ご参籠あり、その間上下両社に御百度のご参拝があった。
豊臣秀吉、天下を統一するや、全国の社領50余箇郷をことごとく没収しこれに代えるに2572石の朱印を奉る。
天和2年(1682年)奏事始をご再興あらせられた。
宝永5年(1708年)内裏炎上の際の如き、東山天皇を始め一時当社を行在所としてご避難遊ばされた。
文久3年(1863年)孝明天皇、攘夷ご祈願のため行幸あらせられ、関白以下公卿及び征夷大将軍以下閣老諸大夫、在京の諸侯これに供奉した。
明治3年(1870年)2月9日 神祇官勅祭者(大祭)に列格。
明治4年(1871年)5月14日 官幣大社に列格、官国幣社の首位に置かれた。
祭日
アクセス
バス:
自動車:
- JR二条駅 から 自動車15分ほど
- 京都市営地下鉄烏丸線 北大路駅 から 自動車7分ほど
- 京都市営地下鉄烏丸線 北山駅 から 自動車7分ほど
出典
公式ホームページ:
平成30年(2018年)3月15日奉拝。